第5回アートでオン!フォーラム 第2部 トークセッション「~(映画文化をとおして)青森と函館どっち?~」
第5回アートでオン!フォーラムでのトークセッションの詳細です!
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第2部 トークセッション「~(映画文化をとおして)青森と函館どっち?~」
出演:あがた森魚(ミュージシャン)、谷田恵一(シネマディクト代表) 進行:嶋中克之(アートでオン!会長)
日時:2016年10月29日(土) 16:00~17:00
会場:新町キューブ グランパレ
嶋中: 今回、あがた森魚さんをお呼びするきっかけになりましたのは、福士正一さんのお宅にお邪魔した時、偶然、お会いしまして、あがたさんがその当時、函館で映画祭のボランティアを応援している、と初めて知り心に残っていました。私達にとっては、高校時代『赤色エレジー』で大スターのイメージ。
「函館港イルミナシオン映画祭」の起ち上げと、ボランティアのみなさんが、継続してがんばっていることを教えていただきたい。
あがた:まず僕は北海道留萌で生まれ、すぐ小樽に引っ越し、父親が海軍関係の仕事なので、3年生の春に青森市に引っ越ししてきました。港、港ですね。この青森の町で、小学校3・4・5・6年生の4年間。長島小学校を卒業しました。
そこの新浜町の今も残っているマルハの倉庫の裏に住んでいて、小学生の時の楽しみが今日、出演の谷田さんのお父さんが経営している奈良屋東映(後に奈良屋劇場、現シネマディクト)に毎週行ってたんだよねぇ。1950年代の終り頃、新町にはたくさん映画館があって夜店通りの角に布団屋さんがあって、その隣に映画館が明るい輝かしい場所として記憶に残っているんですよ。
ねぶたなど、青森の街の独特の風情がいろいろあるんだけど、かなり僕の中に残っている。それは戦後の男性が中心になっていて、東映とか日活とか松竹とかいろんな映画があったけど、特に、子どもに向けても。観に行ったのはチャンバラ映画・時代劇がほとんどだからねぇ。お姫様女優も数人しかいなくて、片岡千恵蔵、市川右太衛門、そういう人ばっかり毎週のようにチャンバラ映画の勧善懲悪な任侠世界を観せられながら。
小学校4~6年の間、なんであんなに夢中になって観ていたんだろう。子どもだからわかっちゃいないんだけど、戦後の近代の日本人の失われていたものをくすぐって、温かい気持ちにさせたり、エールを送ったりしてくれていたんじゃないかなぁ。片岡千恵蔵がゆっくりぶつぶつ言いながら、何かあの姿が戦前・戦中・戦後、僕の生まれる少し前の時代にその人達が、どういうものも受けとめ時代をどう受けとるか。青森の街で函館の街で、日本各地でいろいろな人達がどうやって生きてきたのか。また連帯感・義侠心とか日本人の‟わびさび”など独特なものが、東映映画でちょっと荒っぽいんだけども教えてもらったのが、奈良屋東映だった。それから函館に暮らすんだけど、函館では全然映画に行けなかったんですね。
高校生になってからちょうど007、フランスのヌーベルバーグが始まり、ビートルズの『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』とか、一番印象に残っているのが、『アラビアのロレンス』ピーター・オトゥール、あれを函館の巴座の映画館でスクリーンで観た時、「ああ感動!これが映画なんだなぁ」と…チャンバラ映画で育った自分が、函館で感じました。上京してからはヌーベルバーグやアメリカ・ニューシネマを観て、映画っていう文化の面白さを僕なりに知りました。
だいぶたって僕が、デビューした後に、日本で映画祭から地域おこしをしようと、ブームが始まりました。その中で、夕張国際ファンタスティック映画祭があり、1回目か2回目にテレビ番組の中で、リポーターとして取材させてもらいました。その時、小さな夕張の街で、雪の2月に各国からゲストを呼んで、つかの間、数日間、映画祭をやっていて、体感してみてびっくりしたね。映画メディアそのものが持っているものを、地域の若い人達がタランティーノとかいろんな人を呼んで、お祭り騒ぎをやる発想から得る体感が素晴らしいと思ったね。それが1994年ぐらい。その頃、僕は「オートバイ少女」という映画を函館で撮っていたので、その上映会をきっかけに映画祭をやったらどうか、と思ったのが始まりです。
嶋中:たいへん素晴しいお話でした。今日はシネマディクトの谷田さんがお越しなので、今、お話があったお父様の奈良屋劇場の時代から、ご本人が今、独自のセレクトで経営している想いを教えていただけませんか?
谷田:うちは奈良屋東映の時代から、私で3代目なんですね。じいさんが、もともと布団屋というか蚊帳屋で蚊帳が売れなくなって、さあ次は何の商売がいいか見渡したところ、周りに映画館がいっぱいあるので映画館を作ろうかと…作っちゃってから何の映画をやろうかと思っていたら、その当時、青森市だけで22館も映画館があったので、配給会社がとても相手にしてくれなくて、困ったじいさんが直接、東映の撮影所に行きまして、偶然に撮影所長の伊藤きいさんという人が、旧制の弘前中学校出身っていうだけで助けてくれて、東映の二番館としてやったのが初めですね。
その後、うちのおやじが苦労して東北でもうちだけが‟五社”と言われている、東宝、大映、東映、松竹、日活というメジャー作品の二番もあわせて若大将と座頭市を一緒にやるという時代があって、その後、日本映画が斜陽になって、当時のヘラルドとワーナーブラザーズが、当時は二線級の会社だったのでB級映画をやり出して。ピンク映画をやって、次の週は『宇宙戦艦ヤマト』という、めちゃくちゃな映画館であったんですけども、その後に、親父が突然死んで僕の代になって、最初は、店内設備を整えて、椅子までキネットというフランスの椅子にしたおかげで、洋画のメジャーから目をつけられたというか、その作品をやらなくちゃいけなくなって。基本的にシネコンの時代がやってきて、その後、同じ映画をやるのもなんだなぁと思って、今の単館系と言われている作品が多くなってきたというのが、シネマディクトの歴史です。
嶋中:先ほどのあがたさんのお話の中でも、映画全盛期時代のスタートとしては、チャンバラ映画などが娯楽としてあって、その後、あがたさんは函館に移られてちょっと映画から遠ざかって、その後、ヌーベルバーグや『アラビアのロレンス』で目覚められた、と。実は、私達アートで音楽のある街づくりとして活動していまして、多少、似たものを感じるんですが、日本全国どこでも「アートで地域おこし」と、この10年いろいろな地域でやられているんですけども、なんとなく映画産業と似ているところがある気がします。今回、あがたさんをお呼びするにあたって、心にひっかかっていた映画祭のボランティアを起ち上げているという話。これが単にブームじゃなくてですね。どうやって継続されていくか、また、街に受け入れられていくかといったところに、非常に今、興味がありまして。函館のイルミナシオン映画祭はもう何年ですか?
あがた:20年経っています。1995年なので、一応、昨年で20周年です。まったく、それこそボランティアの実行委員の方々で。事業ではないので、あれで儲かっていないですからね…まったくの持ち出しですね。
嶋中:そういった街で継続されているのが非常に素晴しくて、私達も、何か参考にできる所があるのではないか、と。翻って青森をみると、谷田さんみたいに既に一人で努力されて素晴しい映画を毎週、私達に観させていただいてこれまた素晴しいです。何かここで時代に繋がる様な、街の資産として起こしていけるような、手立てはないかと思っています。たまたま、今回、あがたさんをお呼びするということで、映画なので、谷田さんにご相談にシネマディクトに行きましたら、『函館珈琲』の大きいポスターがあって、びっくりしたんですけど、この時期に函館に目をつけられたのは、たまたまですか。
谷田:『函館珈琲』上映は11/12からなんですが、今日(10/29フォーラム当日)から『オーバー・フェンス』という函館3部作の最終章が上映になります。原作の佐藤泰志さんという作家、函館の人さえ忘れかけていた方ですが、5回も芥川賞にノミネートされながら、その当時の選者が、司馬遼太郎、松本清張、遠藤周作、みたいなキラ星のごとくの作家の選考委員の人達のおかげと言っちゃなんですけども、結局、一度も獲れなかった。最終的には自殺してしまった。函館の人は佐藤泰志を忘れてはいけないと『海炭市叙景(かいたんしじょうけい)』から始まって、『そこのみにて光輝く』という作品が出来て、今回の『オーバーフェンス』という映画が出来たんです。函館の人の映画にかける想い、あがたさんもやっている函館港イルミナシオン映画祭とか函館っていうのは、熱い部分がとっても人に優しいある街です。そういう部分で作る方としては、函館はとても羨ましいと思います。
青森はその反対で、10年前までは‟あおもり映画祭”って川嶋さんがやってましたけど、本当に映画祭のおかげで『素敵な夜、ボクにください』というカーリングの映画ができましたが、それ以降、青森市メインのちゃんとした映画が作られていないような気がします…作っていたらごめんなさい。そういう部分では、今は、制作の面ではちょっと青森市は寂しいかなぁっていう感じがありますね。
嶋中:そうですねぇ。今回のトークセッションのテーマが、青森と函館どっち?ということで、あがたさんは、どちらにも所属されていて、どっちということはないと思いますが、何かコメントございますか。
あがた:いやあ、谷田さんからいきなり、こういうお話とはね…函館を紹介・称賛までしていただいて、青森の現状をね。今、僕ね、東京の東側の埼玉県川口に住んでいるんですけど、地域性・ローカリティといっても“東京のベットタウン”的な位置なんだけど、荒川ひとつ越えるとそこにはそこの何かあるわけね。川口で何かやりたいなぁと思ったりもするんですけど、東京の脇でこんな事やってもと。まあ何かいろいろやってはいますけど、今は青森・函館となるとねぇ。僕、今は函館に住んでいませんからね、そうすると20年前に実行委員長やっている米田君とか、「やまじょう」の主である太田君とか、そういった人達で始めたんですけれども。(フォーラム会場へ)函館から来ている人いますか?…いないですねぇ。いいですよ。函館の人とこんな話をしたいぐらいで。青森と対比しながら話したいんですけど。
まず、褒めるとね、結束がいいんですよ。開始当時、中心だったメンバー10人位が、今もほとんど全員いますから。あの結束性というのは、どういうところから来ているのかな、と。今、おっしゃられた「海炭市叙景(かいたんしじょけい)」から始まる函館3部作は、菅原さんというシネマアイリス、シネマディクトとちょっと対比しうるかもしれない函館のシニア映画館があってそこの代表者なんですね。営利目的ではあるけれど、市民達が有志で運営している映画館で、そこの代表者の菅原さんが、3本のプロデューサー。素朴に言うと、うちの映画祭とは別のところにいる方で、ここ数年の流れの中で佐藤泰志さんの作品を3本続けて映画化した。これだけですごいことね…2本目の『そこのみにて光輝く』はキネ旬の1位とっちゃうし。本当は、うちの映画祭と菅原さんとのチームが一緒になって作ったら、もっとすごい物ができたかもしれないし、菅原さんの判断で菅原さんのチームで独自に作ったことで、この3部作が出来たかもしれない。でも、僕は東京の隣にいる川口市にいる人間として、函館なんだから一緒にやれば、もっとできるのにという想いがある。それは、いいとも悪いとも言えない、津軽と南部みたいなのがあったりするもんで、それが全体として青森の力になってるかもしれないし、その様に一体化するとなかなか足並みがそろわないとかあるというのが函館の実情です。
谷田:やっぱり、映画祭をやっている人と僕らみたいに興業をやっている人は、見えない壁があるんですよ…どこかで交わっちゃいけない。そこは、私も川嶋大志さんとは仲良いいんですけど、やっぱり映画祭をやっているのであって、映画で飯食ってる人は、その中に入っちゃいけないというのがあるんです。そういう部分では。はい。
嶋中:なるほど。昨日、あがたさんをお迎えして新町を通った時、そこに「松木屋デパートがあったよね」とか昔話をしていただきました。当時の街並みの思い出で何かありますか?
あがた:そうだねぇ。隣も津軽物産というお蕎麦屋さんに変わっていてびっくりしました。そこの前でいつもねぶたを見せてもらって。2、3年来ないうちに変わっちゃった。そこの「千成」も子どもの時、よく行ったよ。せっかくだから話しておきたいことがいっぱいあるんだけど、長島小学校の僕の担任だったのは徳差健三郎先生。ご存知の方います?(観覧者、挙手)知ってる?本当!
観覧者:校長先生でした。
あがた:ああ、校長先生の時代。僕よりはお若いんですよね。僕の担任の先生で国語の先生だったんですけど、簡単に言うと、青森の方言教育にすごい熱心な方で、単行本出されていて、国分一太郎さんとかああいう人達と交流をもっていて。ともかく怖いスパルタの先生で、今なら問題になるけど、宿題を忘れたら竹棒で叩かれたり立たされたりね。だけどね、歌を作ったり曲を書いたりして、詩とか文学に対して、すごい優れた教育をしてくれたと思うのね。青森から海峡渡って函館の中学校に入った時、「~にしかし、だから~」これを順接と言う。「~ しかし ~」これを何と言うかと、先生が質問した時、僕が「は-い!逆説といいます。」と言ったら、先生がびっくりして「お前、どこの小学校だ?」と。「青森の長島小学校です。」と言ったら、「青森の長島小学校でそんな事、教えてるんだ」と。たわいもない話ですけどねぇ。だけど、ガリ版というメディアを長島小の宿直室で、徳差先生が刷ったりして俺たちの文集を作ってるわけね。それね、やっぱり一体全体、徳差先生ってねぇ、俺から見ると怖くて、戦争帰りのいけ好かない、マッチョでタイプじゃないんだけど、何ともじんわりと。「子ども作文病院」とか何とかという、出版物を出しているとかね。
とにかく子どもの教育に熱心な人で、皆さんご存じのとおり棟方志功さんね。あの方、長島小学校が、最初で最後の教育を受けたことを俺は教えられた。幼稚園も行ってないし、中学校も行ってない。長島小学校しか行ってない。初めて講堂に入った時、棟方志功の版画があって、「これが棟方志功で、最初で最後の教育を長島小学校で受けた人なんですよ」と、「画用紙を与えらると、はみ出して机の上にも絵を書いてた人ですよ」と、最初に教えられた。あと、松木屋デパートっていうのがあって、棟方志功展の展覧会があったりね。あともうひとつ言うと、矢野顕子さんのお父さんは亡くなられましたけど、鈴木医院で俺の校医だったの。そこで、知らないうちに会っていたと思う。
もうひとつ言いたいのは、青森の人の持っている‟じょぱり”という過去の街を作ったものね。俺、小樽から来た時に、津軽の人達の何かに立ち向っているすごい力を方言で感じた。北海道の人達もだけど言葉だよね。言葉ってすごく重いんだけども、すごくエネルギーがいっぱいあるんだよね。まだ、小樽の方が、おっとりしているねぇ。
あと、ねぶた。あっちにもこっちにもいろいろな祭りがあるけれど、まぁ阿波踊りとか有名だけども、ねぶたが日本で一番の祭りだろうな、と、今でも思っている。それは、小学3年生の時に観た時に、祇園祭りなどの日本の中央の祭りの流れで変形したものが、ねぷたのような気がするんだけども、でも、やっぱり、今、ここでやっていることの原料がそこにあるかもしれない。地域の何か物を作り出そうとして。北海道から来た小学3年生にとってはすごくショックだったの。北海道じゃなかった。
音楽という歴史的にでも当時も、1965年ボブ・ディランに東京ラジオのメディアから来るもので、ポップスっていいなと思ったくらいで、その時に青森のねぶた囃子とか弘前のねぷたとはちょっと違うけど、ねぶた囃子を聞いた時ねぇ。フィジカルに躍動する体感というものも、また意外かもしれないけど、僕の音楽の一つの言及になったりしている。まあ、知らないうちに、たった4年間だけど、青森で自分を育んだといえるかな。
嶋中:たいへん貴重なお話を聞きました。先にまず、函館に結束力という話がありまして、今、また新たに青森‟じょっぱり”という話がありましたけど、まさに青森は、‟じょっぱり”を象徴される反骨精神というのがありまして。谷田さんお一人で、東映の映画館を引き継いで、今、こうやって独自のセレクトをしたものをやられてまして、それこそ‟じょっぱり”じゃないかと思うんですけど、そういうきっかけはありましたか?
谷田:きっかけも何も、行き当たりばったりっていうのが本当に正直な話で。今回の『函館珈琲』をご紹介いただいたのは、太秦という配給会社社長の小林さんがあの作品に絡んでいて先に決まったんですけど、その後に違う会社の『オーバーフェンス』が入ってきたっていうのがある。だから、考えはしてるいんですけれど、作品の流れというのがあって。今、デジタルの世界になってから作品はフィルムの時と比べて3~5倍位多いんですよ。ただ、その中でシネコンはあんなにスクリーンがあっても『君の名は。』っていう作品がうけると、3~4スクリーン写しちゃって、いっぱいあっても作品全部入れるわけじゃない。それも幸せじゃないけど、あぶれた映画そのものがこっちにワーッとくるのが現状なんですね。それが全部出来るわけじゃなし、そういう部分ではいろんな付き合いとかタイミングとかが絡んで、うちの映画のラインナップで出来ているところなんですね。
嶋中:それにしても、毎週、すごい選別だなぁと感心していました。
谷田:いやあ、勘違いです。結局、そういう時代の流れがあって、ドキュメンタリーからドラマから外国映画から、ずっとこのあと年末年始まで、世の中が求めているのがラインナップになっちゃうかな。
嶋中:『函館珈琲』にあがたさんが出演されていますが、俳優とミュージシャン、どちらがいいですか?
あがた:そういえば、三上寛ってここの人でしょう。寛ちゃんとはデビュー当時よくコンサートで一緒になった。あの方、よく今でも映画に出てるじゃないですか。何か番組を観てて、三上寛が出て役を演じていると、ぷっ、と吹き出しちゃうわけよ…何やってんだ、お前みたいな感じで。物語に入らないで現実に引き戻されちゃう。僕、自身なんかも、「あがたさん、そこで立っていればいいからね」とかね…割と、まさに初期の頃、『女番長ゲリラ』でなぜか東映映画からデビューして、あがた森魚役でキャスティングされていて。あの時、歌謡曲がヒットして東映の撮影所に呼ばれて嬉しかった。今度、観て下さい。面白い映画ですよ。
まあ、それがきっかけだったりもするんですけど、最近のピンク映画とかいろいろごちゃごちゃ出てるんだけど、まあ嫌いではないし。今でも憶えてる。奈良屋東映で映画を観て、国道通って、柳町通って、柳町商店街を歩きながら、俺も映画を作ってみたいな、ああいった映画は、どうやってできるんだろうと、夢想した記憶がありますね。そういうものが自分の中に蓄積されているから、映画の匂いするな…と思って呼ばれているんじゃないかな、思いますけど。
嶋中:また、話は変わりますけど、函館イルミナシオン、これは毎年、脚本を募集しているんですか?
あがた:シナリオを募集して映画化する。もう、何本か映画化してますけども。青森で映画を撮るのどうとか、函館の映画を撮るのどうとかって言っててもね。映画祭をやる人が映画を作ってシナリオ募集するのも悪いことではないんですが、劇場が配給・興行する側が映画を作ることはどうなのか。函館の菅原さんの場合、すごく成功した例だけども、まあ大型地域おこしとかご当地ランクで終わっちゃうような。この函館3部作はそれをひとつ越えたところで、作品性としてもそれなりに作れたというかね。ただ、それはシナリオを募集して映画化しているという答えなんですけれど、映画祭を運営して、かつ作品を作ったり映画というメディア全部に何かをやって、作品がまあこの程度かっていうものを作れてどっこいどっこいが普通なわけで、そうまでして映画を作ることはどうなのかというのは常々ありつつも、でも函館では一応やっています。何本か作っているうちに、1本でも2本でも、自分達が作った映画でも面白い物が作れるものがあるんだな、と。その礎になる様に、1本でも作って行こうという、ここまでの流れと現状です。
嶋中:逆に谷田さん、函館の映画祭の状況はいかがですか?
谷田:昨年、副実行委員長の「やまじょう」の、太田さんと飲んだ時に「函館だって青森みたいに、やはり街は死んでるんだぞ」と言われたんですよ。だけど何もしないよりも、がんばって住んでいる人達が元気になるためにあると思うですよ。だから、「アートでオン!」だって音楽のある街づくりということで、商店街なり、街が、いろんな人が、関わって元気になると思うんですね。
で、今、若い人が、携帯で映画を観る、スマホを観て終わっちゃうっていうねぇ。本当にねぇ映画って時間潰しのアイテムになっちゃているというのが困ったなというのが、まずありまして。寺山修司の「書を捨てよ街へ出よう」じゃないけど、今、スマホ捨てて街に出てきてもらわないと、人間社会もおかしくなってくるし、元気な人間が生まれて来ないっていうか、だんだん訳わかんない人達ばっかりが多くなってきているのは、ネット社会とか、そういう部分で、やはり映画館で映画を観て帰りに何か食って、とか、ドキドキしながらデートするとか、そういう場でありたいと思ってるんですけど。
嶋中:先程、あがたさんが夕張の映画祭で素晴しい体験をしたとおっしゃっていましたけれど、まさにその通りだと思います。あのでかいスクリーンで感動して、谷田さんがおっしゃったように、その主人公になりきって街へ出て帰っていくっていう、あの体験というのはずっと心に残っていますし、将来的にきっと、創造活動に繋がるのではないかな、と思っています。
もう一つは、この度、青森と函館の新幹線が通じたということもありますけど、従来、青森市と函館市は青函ツインシティとして提携していますので、私達の活動も将来的に函館と一緒になって何か出来ればいいな、と。今回、偶然、『函館珈琲』を谷田さんが上映されるのを見て、これ映画祭やるのもひとつだな、と思って。かつ、その函館イルミナシオンの皆さんが、もう20年余り、長きに渡りがんばっているので、何かヒントをいただいて、私達も一緒にやっていければ、という考えをもっております。
あがた:いいですか、ひとつ。あのね、青函交流ってもちろん大事だけれど、俺ね、徳差健三郎先生じゃないけど、例えば谷田さんがおっしゃったようにスマホで映画を観るのもあってもいいと思うんだけど、俺は隔離されているのが嫌なんだ。これ、後で見たい人に見せたいと思ってるんですけど、僕、エッセイ書いたのがあるんですけど、奈良屋東映について…こんな、小っちゃい写真も載ってるの。2階までぎっしりのお客さんが入っていて、それ、見るだけで、俺、胸がいっぱいになるけども。娯楽だったし、娯楽がそんなに分散してるわけじゃないから、映画にゴーッと集まっちゃって。それが、いいか悪いか、でもそれはそれで、そこにあった。それを思う時、人が繋がって‟おしくらまんじゅう”した時代が、俺たちの子どもの頃で、俺、飛行機より電車が好きだから…途中、景色を見て夜行列車でね…昔、青森まで来るだけでヘトヘトだったけど、俺は、贅沢なことに青森の友達の所に寄って、次に青函連絡船に4時間位乗ったら函館に着いて、札幌・小樽に行きたくなったら行って、贅沢な旅だったね。でね、上野から電車に乗って行くとさ、だんだん、だんだん東北の言葉が通過して青森の言葉に近づき、車内がほとんど津軽弁になってくるわけだよ。
これはね、映画観るより、映画以上に、もう匹敵するようなリアルライブを見てる訳だからさ。いろんな声の、その人達のいろんな日常の話題が聞こえてきてねぇ。下手な映画より100倍位面白いよ…これは、旅だよ。飛行機でピッと行くのってもったいないじゃないかっていうくらい。でね、いま言葉って言ったけど、青森弁を大事にして欲しいな。だって、今、みんな標準語だよ。ファッションも青森まで帰ってくる、函館まで帰ってくると、東京でダサイ、古いよ、昨年、流行ったんじゃないかっていうのも、平気で着てたりしてるよ。それが、いいんじゃないか?それが、僕らのアイデンティティじゃないか…。言葉だって一緒なんだよ、青函やる前に青森なら青森、函館なら函館が世にね、名をどうであるかをね。さっきの報告会があったけど、あれは地道かもしれないけど、それは自分達の地域性をどれだけ更に深めて引っ張っていけるかってことと関連して、すごく難しいこと。今やこんな映画、1本・2本作ったとこで、いかほどのことであるかもしれないし、ないかもしれないし。「そんなものは、わかんない」だよ。
だけどね、自分達のあった言葉をね、メディアからくる言葉じゃなくてさ、自分達がずっと使ってきた言葉を、もっと持ち続けるということが、俺が急にそういうのを主張してみたけども、それ一番考えてるし、それ、目安かもしれない。そうなんなきゃいけないと言わないし、やっぱり目安だよ。
嶋中:谷田さん、最後に独自の路線をやられていて、想いだとかあれば最後に聞かせて下さい。
谷田:基本、うちは映画館です。映画館というのは、自分のところの単体だけじゃなくて、お客さんが街に来るということなので、街が元気でないとうちも困るっていうのがあって、だいぶ夜店通りも困ってるんですけども、そういう部分では、もっともっとがんばんなきゃっていうのがありますね…がんばります。
嶋中:私達の活動も今度は一緒になって、街を盛り上げて行きたいなぁと思っております。それでは、今回のテーマは「青森と函館どっち」でしたけども、実はこれ、どっちじゃなくて、ドッジボールっていうことで話を大きくしたいと思います。それでは、皆さん、ありがとうございました。